・・・一瞬で涙がこぼれ落ちました。
10年ほど前のことです。
京都で、印象派の絵画展を見ていた時のことでした。フランスの海岸が描かれたある油絵を見た途端、不覚にも涙が流れたのです。
風景画なのです。
特段変わったものは何もないその絵になぜ感動したのか正直言ってその時はさっぱり分かりませんでした。
初めての体験、そして不思議な経験でした。
その絵はフランス・ノルマンディー地方にあるエトルタという海岸を描いた作品で、作者はフランス印象派の画家 モネ。
1874年、印象派第1回展に出品した《印象、日の出》が印象派の命名につながったことでもよく知られている著名な画家です。
私はしばらくほかの絵を見て廻ったあと、再びモネの絵に戻りました。
・・・ ”光”だ !
モネは、確かに風景を描いていました。
しかしその風景は「光に照らし出された海岸と海と空」として私には見えていたのです。
その後、モネのほかの作品を見るにつれ、その思いはだんだん強くなっていきました。
彼が本当に描きたかったのは、風景や人物などではなく
実はそれらを浮かび上がらせている《光》だったのではないだろうか・・・
逆に、光を際立たせるために《影》を描いたのではないのだろうか・・・
そして、私は”光”に感動したのではないだろうか・・・。
光は命あるものの根源
キリスト教の旧約聖書「創世記」には、天地創造の様子が記されています。
神はまず天と地を創りました。
そして「光あれ」と言われ、昼と夜が出来たとされています。
すなわち”光”は、生命を生み、命を育むすべての根源なのです。
生きとし生けるものは皆、無から生まれ、光の中で生き、また無へと還っていきます。
乱暴な言い方かもしれませんが、「生きるとは、光とともにあること」なのです。
私がモネの絵画に感動したのは、光ととも今も在り、一個の生命として生かされていることに本能的に
感動したのだと思います。
美術と音楽
私事ですが、亡母は美術教師でした。
私が小5の年に亡くなりましたが、家の廊下には多数のキャンバスやイーゼルが置いてあったのを今でも覚えています。私が美術好きなのは母の影響なのでしょう。
美術と音楽は、文学とは異なり言葉を使用しないことで共通しています。両方とも論理性はありますが文学と比較すると、抽象的です。
しかし、美術の方がより直接的、直感的なのではないかと、京都の体験から思っています。
音楽は、時間芸術です。
もちろん聴いた瞬間に涙した経験もありますが、その全容は時間の経過とともにしか鑑賞できません。
しかし絵画や彫刻は、すべてが目の前に提示され、表現されています。
ところで、私はこれまでに三人の先生から和声学を学んできました。
そのおひとりが「作曲」についてこうおっしゃっていました。
「作曲とは、時間軸という空間に音を配置していくこと。」
構想し、構図を考え、デッサンし、色彩や濃淡を描いていく・・。
絵画は二次元、彫刻は三次元で目の前にある空間に対象物を造り上げていきます。
音楽の場合、楽譜は二次元ですが実体がありません。
楽譜は鳴らないからです。
「作曲」は英語ではComposeですが、原意には「素材を構成する」という意味があります。
作曲家は、どちらかというと感覚よりも論理性や空間的(時間的)な構築力が求められる建築家に似ている気がします。もちろん直観力や感性は必須ですが、作曲家には理数系脳を持った人が多いのではないかと最近思っています。
また、美術が目に見え常にそこに在るのに対し、音楽は目に見えず、演奏が終わると消えてしまい実体がなくなってしまうのも大きな違いでしょう。
音楽は光と影
音は沈黙から立ち昇り
空間に響き渡り
やがて消え
再び 沈黙へと帰す
人生に、とてもよく似ていますね。
一方、音を使った芸術「音楽」は、
私たちが行きている今、「光」とともにある今をよろこび
光に満ちた人生が永遠であることに憧れ
歌い奏でられます。
また、誰しも避けることの叶わない「死」という「影」への様々な想いも奏されるのです。
音楽は「光と影」。
やや理屈っぽいお話になりましたが、最後に今回のブログに一番ふさわしい曲を選んでみました。
そして次の機会には、音楽の中の「光と影」について書いてみたいと思っています。
Wolfgang Amadeus Mozart アヴェ・ヴェルム・コルプス (Ave verum corpus)
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